google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 世界遺産・日光大紀行: 5月 2012

2012年5月31日木曜日

東北紀行(39)花巻 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」

.



 東北紀行(39)花巻 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」   、





宮沢賢治



『雨ニモ負ケズ』・宮沢賢治  、

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ



雨ニモマケズ

『 人間というものは、死というものが、身近なものに感じられるようになった瞬間、初めて生というものの尊さを実感として受け止められるのだなと思った。
そして賢治死後、68年経った2001年賢治がこれほど日本中の人々に愛され、新たなる国民文学とまで表されている秘密の一端が分かったような気がした。
それはあらゆる事について、彼の紡ぎ出す言葉の一語一語が、他人や世間に「こうしろ」「ああしろ」などとおこがましいことは一切言わずに、「サウイフモノニワタシハナリタイ」としてあくまで「一人称」(自分の問題)として語る賢治の心の優しさと謙虚さにあるのではないか、ということである。
このようにして、賢治個人の「諦め」は、一種の悟りの心境にまで変化を遂げ、ついには単なる諦めが「諦念」となり、日本人いや人間精神のもっとも美しい心境を描いた「雨にも負けず」の詩文として結晶したのであろう。 』

識者・佐藤氏評】   http://www.st.rim.or.jp/~success/amenimo_ye.html


見学序に、孫の土産として「風の又三郎」と「銀河鉄道の夜」の冊子を購入して記念館を退出した。


次回、「新渡戸記念館





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」







2012年5月30日水曜日

東北紀行(38)花巻 「宮沢賢治人物像」

.



 東北紀行(38)花巻 「宮沢賢治人物像」   ,




天才・宮沢賢治


宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日、花巻の母イチの実家で生まれている。(1896-1933)
盛岡高等農林卒業後(現岩手大学農学部)、花巻で農業指導者(花巻農業学校教師)として活躍のかたわら創作活動をして詩人・童話作家としての名を上げる。 
又、自然と農民生活で育まれた独特の感覚や宗教心に目覚め生涯、法華経を敬信したとされる。
童話「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」、詩集「春と修羅」など多くの作品を残している。

転機となったのは29歳の時に「草野心平」と巡り会ったことであり、彼の積極的な紹介により宮沢賢治の名前が世に少しずつ知られるようになっていく。
1933年(昭和8年)9月21日午後1時半、花巻の宮澤家で結核のため死去、享年37歳の若さであった。


1931年に東北砕石工場技師の技師を担当するが東京で病に倒れ、帰郷して創作に専念するようになる。同年、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。 
又、鉱山会社勤務の経験や近隣を走る「岩手軽便鉄道」(現在の釜石線)に度々乗ったことで鉄道の駅舎の命名や東北地方では有名な座敷童(わらし)をモチーフした「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」の創作が実を結んだとも云う。



宮沢賢治の数ある作品の中で、『雨ニモ負ケズ』は余りにも有名な詩であり、何行かは暗唱できる方も多いことだろう。
死後発見されたとされるが、死の2年前に書かれたものという。 
「東北砕石工場」の技師となり、夢を抱いて上京したが運命は皮肉だった。 
その時期、賢治は急に発熱をして倒れ、その症状は思いの外深刻なもので、遺書を書いたほどだったという。 
何とか花巻の実家に戻った賢治だったが、床に伏せる日が延々と続いた。
そんな時、枕元に置いていた手帳に書いたものが、この「雨にも負けず」という散文であった。

一人の農民と して生きていきたいという賢治の理想とともに、行間には生に対する渇望と死の覚悟が読みとれる。


次回、賢治 「雨にもまけず





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





2012年5月26日土曜日

東北紀行(37)花巻 「蛙の詩人・草野心平」

.



 東北紀行(37)花巻 「蛙の詩人・草野心平」  ,



詩集「第百階級」の扉には、四行の題詞が書かれている。

蛙はでつかい自然の讃嘆者である
蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである
蛙は明朗性なアナルシストである

そして・・、
『 蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す、この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕は、それ故にのみ“かへる”を慈しみ、嫉妬の如き憎む・・』、とある。

かえる」は、自然の食物連鎖の中に組み込まれ、他の生物の食料になる可能性の中にいることが、他の生物を食料とすることの正当性がある。 
人間は自然の枠外に出て、しかも食物連鎖の頂点に立つ。
もはや正当性はない。 
互いに殺しあうことによってのみ、その正当性を無理やり見出す。 
その幸、不幸を唱えるならば、悪夢を持たない「」のなんと幸福なこと・・!!
、と「蛙」を賛美しているのである。



草野心平は、1903年石城郡上小川(現いわき市小川)で生まれている。 
兄も詩人で、心平に大きな影響を与えたという。

旧制磐城中学(現、磐城高校、小生の大先輩)、慶応大学普通部の入・退学を繰り返し、中国に渡って嶺南大学(現、中山大学)で学ぶ。 
帰国後、詩を書きながら貧窮の中で各地を転々としながら、編集者、記者、宣伝部員から貸本屋、焼鳥屋、居酒屋の経営まで手がけるが、商売上手ではなかったようである。 

そんな中で、宮沢賢治と八木重吉(日本の詩人:明治31年、町田市相原町に生まれる、キリスト教徒、肺結核により29歳の若さで死去)を広く世に紹介し、高村光太郎との温かい友情は終生続いたという。
詩人としては、詩集「第百階級」「定本・蛙」などで評価を確立し、蛙を通して生命力への賛美と自然のエネルギーをうたう「蛙の詩人」と親しまれた。
それが縁で、隣の福島県川内村(天然記念物モリアオガエルの生息地)の名誉村民になって毎年村を訪れ、自分の蔵書を村に寄付しているという。

いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章受賞。 
昭和63年(1988年)11月12日、85歳で生涯を終えている。


次回、「宮沢賢治人物像





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」



.

2012年5月25日金曜日

東北紀行(36)花巻 「賢治と草野心平」

.


 東北紀行(36)花巻 「賢治と草野心平」  ,



宮沢賢治を世に紹介した人物として、同じ東北出身(いわき市)のもう一人の偉大な人物がいた。 しかも、小生の大先輩でもあるから是非紹介しておきたい。 
自称他称、かえるの詩人・「草野心平」氏である。


春の歌』 詩 草野 心平

かえるは、冬のあいだは土のなかにいて、春になると地上に出てきます。
そのはじめての日のうた・・、

『 ほっ まぶしいな。
ほっ うれしいな。
みずはつるつる。
かぜはそよそよ。
ケルルン クック。
ああいいにおいだ。
ケルルン クック。
ほっ いぬのふぐりがさいている。
ほっ おおきなくもがうごいてくる。
ケルルン クック。
ケルルン クック
 』


かえるのシンペイ」は・1987年の文化勲章を受章している。

1931年、東京・麻布十番で焼鳥屋台「いわき」を開店した・・、
1952年、文京区に居酒屋「火の車」を開店・・、
1957年には新宿にバー「学校」を開いている。
かえるのシンペイは、やはりかえる同様、水に縁があったようだ。

それでも貧乏神はシンペイの元を去らず、未だ面識のなかった宮沢賢治あてに「コメ1ピョウタノム」と電報を打った。 
賢治に電報を打ったのは、彼が農場を持っているのを知っていたのである。


宮沢賢治を見抜いた草野心平の凄さ・・!、

この賢治のことをシンペイは・・、

『 現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。 世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。 彼の存在は私に力を与える(中略)、私は今只、世間ではほとんど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。 (中略)今後、彼はどんな仕事をしていくか、恐るべき彼の未来を想うのは私にとって恐ろしい悦びである。 宮沢賢治の芸術は世界の第一級の芸術の一つである 』と断言している。 

そして、若き天才・宮沢賢治の死後まもない昭和8年、「日本詩壇」に載ったシンペイが送った追悼文の末尾に、『 最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である』 、と書いている。   

宮沢賢治の偉大さと、又それを見抜いた草野心平の凄さがよく理解できるのである。
草野心平はただ単なる「蛙の詩人」ではなく、彼こそ原始から未来への線上で大光芒を放つ詩人であり、世界に誇る哲学的詩人である。 
宮沢賢治と並ぶ、もう一人の「東北人らしい感性豊かな人の代表」なのである。

草野心平」はただ単なる「蛙の詩人」ではない、偉大なる「蛙の詩人」なのである。

次回、更に「草野心平





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





2012年5月23日水曜日

東北紀行(35)花巻 「宮沢賢治記念館」

.



 東北紀行(35)花巻 「宮沢賢治記念館」   、
 


 

宮沢賢治記念館の入口

宮沢賢治記念館の洒落た玄関



花巻へ到った。 ICは花巻空港である。 
先ず、最初の訪問先である「宮沢賢治記念館」に向かった。
賑やかな国道4号線から283号線へ回って、10分ほどで到着した。
花巻平野の中の丘陵地の高台、緑豊かな林の中に、モダンな記念館の建物があった。

展示室には宮沢賢治ならではの広範囲、多岐にわたって展示されている。
文学者、作家としての作品の他、自然科学、農村環境、音楽芸術など、特に、文学作品としての作品や出版物、蔵書の多さにびっくりする。 詩集、童話集、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品があり、これらの大多数の作品は、死の直後から主に「草野心平」(親交のあった友人、先輩)の尽力により多数の作品が刊行されたという。
尚、展示室の外部テラスからのどかな風景が望まれて、中央に北上川の清流が一服の絵のようであった。


記念館より望める北上川と町並み


展示品は画家としての作品、東北の鉱山技師時代(石灰石工場)の掘り出した鉱石の標本、地質図、又、音楽にも才能があったらしく愛用した「チェロとバイオリン」、農学校(花巻農学校)で経験した農事に関するもの、宗教(法華経)に関するもの等、多岐多彩にわたっている。



賢治が音楽に興味を持ったとされる「バイオリン


宮沢賢治の作品、記念品を展示する記念館の主唱者も、「宮沢賢治の深慮、思想と、詩や童話、教育や農業の事など、彼への理解は計り知れなく容易ではない」としている。
又、草野心平のいう賢治に関して『 最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である。 』と評している。 

次回、宮沢賢治を世におくった、小生の大先輩でもある「草野心平」の紹介。



.【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」



.

2012年5月22日火曜日

東北紀行(34)岩手路  「南部氏と盛岡藩」

.



   
新・日本紀行

 東北紀行(34)岩手路 「南部氏と盛岡藩」  ,




本丸・二の丸間の空堀に架かる赤橋


二の丸に築かれた草生す高石垣



時は下って戦国期、陸奥国・北部の豪族であった三戸城を居城とする南部信直(三戸南部氏)が天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して秀吉の満悦を得、所領の安堵状と朱印状を賜り、10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立している。 
更に、慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、大名として認知されるのである。
この頃から主藩は盛岡に置かれ「盛岡藩」となっている。 
石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。


戦国末期の豊臣政権の軍勢下、南部信直は浅野長吉から不来方 (こずかた・今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれる。 
浅野長吉(ながよし:後の長政)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉と名乗り「長政」は晩年の改名である。 
子に浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の長直の父)がいる。



JR盛岡駅は、珍しく北上川と西側山地より流れ来る雫石川の合流点に設えてある。 
もし、ここにお城を築いておれば地勢的にの軍事上理想的のようにも思えるところである。  
実際の盛岡城は、駅前正面の不来方橋を渡った先、凡そ1km足らずのところにあり、無論、今は城郭は無く周囲を石垣や石の柵で囲ってある城址のみで、城内は岩手公園、愛称「盛岡城跡公園」として整備されている。

「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代(初代盛岡藩主)南部信直は、盛岡城をはじめ、城を中心とした城下町の建設を始め、概ね、現在の盛岡の街並みが出来上がっている。
盛岡城は会津若松の鶴ヶ城、白河の小峰城と並び東北三名城と呼ばれていたようで、特に城壁周辺は土塁や高い石垣が多用され、其の美しさは東北の城の中では異例ともいえたらしく、城郭がなくなった今でも城垣などの威容を感じることができる。

現在の盛岡城は本丸、二の丸を中心に石垣や水堀の一部など保存状態も良く国指定史跡に指定されていて、又、日本100名城に選定されている。
当時は盛岡のことを不来方(こずかた)と言っていたらしく、お城の名前も不来方城と呼んでいたが、2代目・南部利直が名称を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込めて「不来方」から「盛岡」に改めたといわれる。 従って、正しい呼称は南部氏の領する南部藩の盛岡城ということになる。


江戸も末期の1817年には、従来の南部藩の名称を藩主の居住する土地の名を取って盛岡藩と改められ、この時期になって盛岡藩の盛岡城ということになる。
幕末から明治維新に到って藩籍奉還が許されると、南部家は南部利恭が跡目を相続し盛岡藩知事に任命されている。 
鎌倉期、南部光行が甲斐の領国から陸奥国に到って、其の後、南部利恭を迎えるまで実に800年の歳月、南部家41代を数えることになる。


岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、
『  古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 こんな国が他にあるだろうか  』とも述べている。

彼の著書に『炎立つ』という作品がある。
平安時代前期の朝廷と東北地方の関わりから、物語は平安末期から鎌倉時代の初期の頃の奥州を舞台にした戦乱模様を描いている。 前九年の役、後三年の役の奥州藤原氏の開祖とも言える藤原経清の生涯から、初代・藤原清衡が奥州の覇者となり、更に第三代・藤原秀衡と第四代・藤原泰衡の時代における藤原氏の栄華の時代から源氏台頭による頼朝、義経ら奥州藤原氏滅亡へと到る過程を詳細に物語っている。
尚、この作品は1993年から1994年にかけて放送されたNHK大河ドラマにもなっている。

次回、 花巻 「宮沢賢治記念館



.


 東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」  .




三戸城の大手門・「綱御門」(復元)
三戸城の実際の築城は戦国期の永禄年間とされるが、それ以前の800年前に南部光行が防衛上の拠点(城柵)としたとも云われている。



地図を見るまでも無く、八戸に代表される「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く

平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 
糠部郡は、現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。


この地方は藤原時代から大いにを育成していたことは既に知られていた。
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。

南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。

この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。
だが、四戸がない。 このことは四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないかという説が有力だといわれる・・?。



甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとされている。
因みに、南部三郎光行公は、「石橋山の戦い」で源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部町)を与えられる。この時、その地名にならい、「南部姓」を称したといわれる。

これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。



序ながら、青森には南部地方と津軽地方とがある。 
南部地方とは、青森県東南部を指す地域で、一般に、青森県東南部の八戸市を中心とした十和田市、三沢市、三戸郡、上北郡の市・郡を指す。 
南部の由来は無論、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった「南部氏」から来ている。 別名この地方を県南地方とも呼ばれるが、近年では南部は地域名として捉える節もあるようだ。 
又、津軽は現在の弘前、青森を中心とした青森県西部を指して言う地域呼称である。

津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。
つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。


この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。
他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。 
こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。
それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」と。 

江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。 
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。
廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。

最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。
その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。
現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが、果たして・・??。

次回、南部氏と盛岡藩  、





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」







.

2012年5月18日金曜日

東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」

.



 東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」  .





三戸城の大手門・「綱御門」(復元)
三戸城の実際の築城は戦国期の永禄年間とされるが、それ以前の800年前に南部光行が防衛上の拠点(城柵)としたとも云われている。




地図を見るまでも無く、八戸に代表される「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く

平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。 
糠部郡は、現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。


この地方は藤原時代から大いにを育成していたことは既に知られていた。
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。 
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。

南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。

この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。
だが、四戸がない。 このことは四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないかという説が有力だといわれる・・?。



甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとされている。
因みに、南部三郎光行公は、「石橋山の戦い」で源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部町)を与えられる。この時、その地名にならい、「南部姓」を称したといわれる。

これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。



序ながら、青森には南部地方と津軽地方とがある。 
南部地方とは、青森県東南部を指す地域で、一般に、青森県東南部の八戸市を中心とした十和田市、三沢市、三戸郡、上北郡の市・郡を指す。 
南部の由来は無論、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった「南部氏」から来ている。 別名この地方を県南地方とも呼ばれるが、近年では南部は地域名として捉える節もあるようだ。 
又、津軽は現在の弘前、青森を中心とした青森県西部を指して言う地域呼称である。

津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。
つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。


この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。
他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。 
こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。
それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」と。 

江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。 
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。
廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。

最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。
その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。
現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが、果たして・・??。


次回、南部氏と盛岡藩  、





.【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」






2012年5月17日木曜日

東北紀行(32)岩手 「前九年・後三年の役と藤原四代」

.



 東北紀行(32)岩手 「前九年・後三年の役と藤原四代」  ,



平安後期の1051年が「前九年の役」で、1083年が「後三年の役」とされる。
東北地方の北上川流域で勢力をふるっていた豪族、安倍氏が1051年に反乱を起こすと、朝廷から軍が派遣されるが、ことごとく敗れてしまう。 
朝廷は更に源頼義とその子・義家を派遣して討伐へ向かう。

この時、江刺の豊田館に住んでいた藤原経清が、安部氏と姻戚関係もあり共に戦うことになる。 
安倍、藤原氏は頑強に抵抗するが、出羽の豪族・清原氏が源頼義方を応援したため、遂に「厨川」(盛岡市の北)にて鎮圧、大敗を喫し、安倍貞任、藤原経清共に敗死する。
  

藤原 経清は陸奥国亘理に縄張りをもつ豪族である。 
平将門の乱の平定に活躍した藤原秀郷の直流とされ、溯れば中央(奈良・大和の朝廷)における藤原四家の一つ藤原北家の後裔とされる。

経清亡き後、内室は嫡男を連れて宿敵であった出羽清原家に嫁ぐことになるが、この嫡子こそ後の藤原清衡で奥州藤原四代の初代となる。
安部氏滅亡後、暫くは出羽清原家が中央から認められていて、ほぼ東北全体の実質的支配者であった。これをまでを前九年の役という。



この後1083年頃、安倍氏の後を受けて東北地方をおさめていた清原氏は、今度は一族の間で争いを起こす。 
最終的に前九年の役で活躍したが源義家が、金沢柵(秋田県横手市)で清原氏一族の藤原清衡をたすけて争いを終結させる。 これを「後三年の役」という。

この両戦に都から出陣したの源頼義、源義家によって源氏の名を世に知らしめることになり、そして義家から五代目に源頼朝、義経、更には木曾義仲を世に出させることになる。 だが、現時点では中央では平家が台頭しはじめ、朝廷の実権は藤原氏が握っていた。 



さて、藤原清衡は、母が清原氏に嫁いでいるため、本来は清原清衡である。 
だが、元服の後か、或は平泉に居館を設けてからかは本来の父の姓である「藤原清衡」と名乗った。
清衡は、1088年から築かれたご存知奥州藤原四代の祖であり、まさに100年間の基礎を築いた力量ある人物であった。 
平泉では自らが墓稜となる「金色堂」を造営している。

偉大なる初代清衡の後を継いだのは基衡であった、
基衡」は内紛を起こすなど気荒なところもあったが、平泉に毛越寺を創建したり、都市平泉を整備したりして二代目らしい足跡を残している。

三代目はご存知「秀衡」である。 
平氏の清盛や宗盛も頼ったとされ、源氏の頼朝は恐れをなしていたというほどの名君であった。 
この頃、源義経(16歳)が平泉に下り、秀衡の庇護されるようになる。 
その6年後(1180年)義経の兄・源頼朝が伊豆で挙兵、富士川の合戦では平氏を破っている。併せるように義経が秀衡の武将として平泉より出陣している。 
その後、義経は壇ノ浦で平家を滅亡させるなど華々しい活躍をするが何故か兄・頼朝に嫌われ、結局、秀衡の元へ下る。

四代目「泰衡」に至るが、鎌倉の頼朝に対しては始終弱腰であった。 
そして遂に頼朝に屈し、泰衡は従兵数百騎で義経の起居していた「衣川館」を襲撃し、義経を自害へと追いやった。
泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の和平を図ったが鎌倉側は承知せず、頼朝自ら出陣し、大軍を持って奥州追討に向かった。


1189年には平泉は炎上し、泰衡は比内郡において老臣・河田次郎に殺され、奥州・平泉藤原氏は滅びた。
源頼朝は、奥州藤原氏の討伐で戦功を挙げた甲斐の「南部光行」に、甲斐国南部牧(南部町)から陸奥国糠部郡などを与える。 
光行は奥州の領地に三戸城(青森県三戸郡三戸町)を築城した。


次回、「南部氏と“戸“





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」







2012年5月16日水曜日

.



 東北紀行(31)岩手 「奥州の不穏」  ,




坂上田村麻呂が蝦夷の地を平定し、朝廷の下、兵役や貢税などの取り決めをしてから凡そ100年の間、陸奥国、奥州の地には多少の小競り合いはあったものの動乱、大乱などは無かったようである。

しかし、平安後期になってくると、俘囚(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷)の長は地域同士の小競り合いの中、各地で柵を巡らし、戦闘を整え、中央政府に逆らって私腹を肥やし、果ては貢税などの滞納、拒否を行うようになる。

これら俘囚の長に代表されるのが、奥六郡(現在の奥州市から盛岡市にかけて)を支配する安倍氏(安倍貞任)や出羽・仙北地方の棟梁・清原氏(清原真衡)であった。 
特に、安倍氏は広大な地域に影響力を発揮していた。 
そして権力、兵力が増大するに従い、陸奥国の奥六郡(北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
更に、安倍氏は朝廷への取り決めを破り、貢租(租税)などの納付を怠る状態になった。 阿倍氏のこれらの施策は、朝廷に対する謀反であり、反逆とみされた。
これにより「前九年の役、後三年の役」が勃発することになる。



平安後期の東北北部は、再び戦乱の時代を到来することになるが、先ず、その当事者は安倍氏に対して途中からであるが清原氏が登場する。 そして、戦役の結果として清原氏が安倍氏を滅ぼすことになる。

安部氏は奥六郡を支配する俘囚の長であり、その出実については奥州に下った中央豪族である安倍氏が任地で子孫を残したとの説、又、飛鳥時代の7世紀中頃、日本海側を北に航海して蝦夷を服属させたた阿倍比羅夫(あべのひらふ)につながる系図だとも言われ、それに、元々、東北に根ざした住人であるといった説があるが定かではないらしい。 
何にしてもこの戦役中、中心となるのは安倍貞任(あべさだとう)という人物である。

一方、清原氏はやはり俘囚の長を自称している。
清原氏は、東北地方で栄えた豪族で、仙北三郡を支配した出羽清原氏である。(現在の秋田県と山形北部地域)

清原氏は天武天皇の血筋といわれ、その皇子である「日本書紀」を表した舎人親王の系統とされている。
又、同系に「枕の草子」を書いた清少納言がいるというが、これも定説でない。
因みに、俘囚とは血筋とは関係なしに、東北地方に元々住んで居た人、或は移住させられた人、土着した人全てを俘囚と呼ばれている。 
その中から大和朝廷の権力によって選出された有力者を俘囚の長と呼んだ。

奥州不穏の中、朝廷は河内源氏の「源頼義」を陸奥守として、事態の収拾を図るため陸奥に赴任することになる。


次回、「前九年・後三年の役」





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」






.

2012年5月15日火曜日

東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」

.



 東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」  ,




手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の赤○印が清水寺(Asahi・comより)



【追記】  

平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から特定されたという。

京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されていて、内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏(藤原氏の本流)の根拠地である点から関連した高貴な一族の誰かと推定されていた。

清水寺縁起」には田村麻呂の墓地に関する記載があり、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。 
その後の研究によって西野山古墓は田村麻呂自身の墓であることが特定されたという。
尚、清水寺の創建は平安初期に「延鎮上人」(奈良から平安前期の法相宗の高僧)により開祖 坂上田村麻呂の堂宇建立により創建されている。 
清水寺のある音羽山は、元々は延鎮上人の観音修行の地であった。 そこへ田村麻呂が山荘を建造したが、田村麻呂の夫人の発願によって堂宇として寄進し、延鎮上人によって開山したものとされている。(北観音寺⇒清水寺


田村麻呂は平安初期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷の勢力が強かった事が伺えるのである。
同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。

西野山古墓
は清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。 
又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。

この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。
遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。


次回、岩手 「奥州の不穏





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





2012年5月14日月曜日

東北紀行(29)岩手路 「坂上田村麻呂」

.



 東北紀行(29)岩手路 「坂上田村麻呂」  ,



中国風の政治を目指した桓武天皇は平安京を造営する。 
その平安京の鬼門の方向に異国の野蛮な民・「蝦夷」が存在することは耐え難かった。 
即位後、早速、蝦夷の制圧を政策にかかげた。 
ところが、蝦夷にアテルイという英雄があらわれた。

アテルイは蝦夷の族長たちをまとめ、北上川(岩手県)の支流、衣川での戦いで、わずか1500人ほどの軍勢ながら、桓武天皇の派遣軍を打ち破る。
その3年後、今度は坂上田村麻呂が副将を務める10万人以上もの第2次蝦夷制圧軍がやってきた。 ところがアテルイ達はこれをもはね返して、北上川から北の独立を守った。

坂上田村麻呂は新たな征夷大将軍の位を与えられ、801年からの第3次蝦夷制圧を指揮することになった。 
田村麻呂は、兵力で押しても蝦夷はぜったい平定されないと考え、そこで蝦夷の文化と自立性を認め、蝦夷の族長に対する懐柔工作を展開する。
これによってアテルイの連合組織は分断され、弱体化してしまい、アテルイは盟友のモレとともに田村麻呂に降服することになる。


この戦いの締めくくりとして、坂上田村麻呂はこの地に胆沢城を造営し、150年にわたる陸奥北半の経営拠点とした。 
これによって胆沢地方をはじめとするこの地方は中央集権下に組み入れられ、律令体制の下に統治されることになる。 以降、胆沢郡が新たに設置され江刺郡・和賀郡・稗貫郡・紫波郡・岩手郡と合わせて「奥六郡」と称された。
田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生むことになる。 
即ち、文の菅原道真と武の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされた。


一方、陸奥按察使である坂上田村麻呂にはもう一つの使命があった。
奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。
ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。
当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。 これらは主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであった。

坂上田村麻呂将軍は、武装した「稲作キャンペーン集団」ともいうべき任務をも兼ねて、弥生の文化を広めることにも重点をおいた。
彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。 

また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては珍しく、いつのまにか蝦夷の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。

津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。
因みに、坂上田村麻呂が大軍を派遣した際の拠点を一旦、陸奥国多賀城(宮城県多賀城市)に置いている。 
田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。
そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」のお堂を設えたという。 これが今の松島・五大堂である。


田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。
中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主;後漢・高祖の末裔で、3世紀頃一族を率いて日本列島に渡来した)を祖とすると伝わる。 
坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。
田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。
征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 

この役職は田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。
頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の王政復古の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。

次回、田村麻呂の墓地





.【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」





2012年5月12日土曜日

東北紀行(28)岩手 「大伴家持」

.



 東北紀行(28)岩手 「大伴家持」  ,



涌谷町の黄金山神社境内に立つ大伴家持の「万葉歌碑」




『 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 
            陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
 』
 
(東国の陸奥の山に黄金の花が咲いたおかげで、天皇の御代は益々栄えるだろう)




日本で始めて金を産出したのは宮城県涌谷町の黄金山神社境内には、金の産出を記念する仏堂が建てられた。 
これが現在の国指定史跡の「黄金山神社」と「黄金山産金史跡」である。 
現在も、神社の側(そば)を流れる小川からは砂金を採取できるという。

この時の延暦元年(782年)、越中国(富山県)に地方長官として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は、陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)として陸奥国府多賀城へと赴任している。(当時の陸奥守:国司は百済王・敬福)

陸奥按察使は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職で、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した地方官のことである。
家持は延暦4年(785年)、陸奥按察使持節・征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没している。



黄金が産出した頃、八世紀の宮城県北地域、特に国府・多賀城より北の地域は、政府の北東辺域にあたり蝦夷(えみし)の地との境となっていた。
政府は国家の範囲を北へと広げる政策をすすめながら、関東地方などから多くの人々を移民させ、要所には官衙(かんが;役所)や守りの城柵などを置いて、地域の整備や「蝦夷(えみし)」と呼ばれた原地人の人々の教化(支配下政策)にあたっていた。

こうして、律令政府のすすめた北進政策と産金地の拡大が深く重なりあい、後に「黄金の国ジパング」としてしられる奥州平泉の黄金文化の誕生につながってゆくのであるが、この時、朝廷(中央政府)による北進同化政策を、押し止めようとしたのが蝦夷の一族であった。

蝦夷(えみし)というのは農耕が導入される以前の日本人という説もあり、先住民族であるアイヌであるともいわれる。 
飛鳥時代(七世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。
元より、東北の地は豊穣な大地に恵まれた聖域で、日本で初めて金が産出された土地でもあり、自然への畏敬と人と人との絆を大切にした暮らしを送っていた。 その生活は、毛皮や馬・鉄・金などの特産物の交易によって営まれていたといえる。

大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又和人の築いた柵を越えて襲撃を行っている。 
飛鳥期の658年には阿倍比羅夫が水軍を率いて蝦夷を討ったという記録もある。

780年頃、蝦夷の最大の戦いは胆沢とその周辺で行われ、陸奥国の国衙である多賀城を一時陥落させている。 
この時の指導者がアテルイという名が伝わっている。  

平安初期、桓武天皇が京都へ都を移してからは、朝廷側が大軍をしきいて遠征し、この時の征夷大将軍が「坂上田村麻呂」であった。


次回、征夷大将軍・「坂上田村麻呂




【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」






2012年5月11日金曜日

東北紀行(27)岩手 「東北で国内初の金産出・・!!」

.




 東北紀行(27)岩手 「東北で国内初の金産出・・!!」  ,




中世、平泉文化の隆盛の一要因であった「東北で国内初の金産出・・!! 

明治維新で東北諸藩の多くは賊軍とされ、この時、長州の誰かが「白河以北は一山百文」(東北の価値)とあざけりを受けたことがある。 
尤も、盛岡出身の原 敬(はら たかし)はこの話を聞いて、号を「一山」(のちに逸山)に定めたという。
原は、長州の一言に対する反骨精神の持ち主であったのだ。
原 敬は、南部(盛岡)藩の名家の出身だが、分家して士族から平民となったため、「平民宰相」と呼ばれ人気が高かった。


しかし、奥羽地方は「一山百文」どころか、とんでもなく光り輝いた時代があった。
それは金の文化といわれる平泉に栄華が開かれる遥か以前のことであった。



海ゆかば」   作詞 大伴家持

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ




この歌はご存知『海ゆかば』であるが、日本海軍の歌ではない。
ただ、1937年(昭和12年)に国民の戦闘意欲、高揚を意図して制定された曲というのは事実であった。
それ以前に明治天皇が、この文言は天皇を崇敬する気持ちの現れであるとして、「軍神を紫宸殿に祭る祭文」の中にも引用されたという。


原文は「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌」 大伴家持
(陸奥国からの金が産出し、天皇の御代をたたえる御祝歌)

現代語訳
『 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(当時の聖武天皇)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり  (以下略)   我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 『 海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない 』と誓って  (以下略)  朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい 』


歌の中で家持は、産金地を「陸奥の小田なる山」、「みちのく山」と詠んでおり、万葉集に登場する地名の中では最北・最東の歌となっているという。

実際の当時の金の産地は古代から中世にかけては陸奥国小田郡で、現在の宮城県遠田郡湧谷町にあたる。 この地域には金産地らしく黄金山神社や黄金、金山といった地名や痕跡が今も残る。 



奈良期の天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺盧舎那仏像(大仏殿)の建立の詔を出している。
都(奈良)では東大寺の造営工事が進行中であったが、大仏に塗金するための金の不足が問題となっていた。 
そして、陸奥国小田郡から金が産出したという知らせを聞いて天皇は大変に喜び、東大寺大仏に詣でてこのことを報告し、和暦年号も西暦749年の天平時代からは天平感宝、天平勝宝、天平宝字と「宝」という字が付された年号時代(天平〇宝)が764年まで続くという、国家的な慶事として大々的に祝賀されたという。


因みに、陸奥国から産出した金を大仏殿の建立に当てたのは黄金900両(約13㎏)とされ、大仏造立に要した金の量は、全部で10436両(約146㎏)と記録されている。

産金より1250年を経た現在も、わずかながら大仏には鍍金の痕跡が残されているという。


次回、国司歌人 「大伴家持





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」






.

2012年5月10日木曜日

世界遺産・平泉(25)  「世界遺産の平泉構成資産」

.




世界遺産・平泉(25)  「世界遺産の平泉構成資産」 ・



日本国内の世界遺産


岩手県主要地map


平泉地区の世界遺産


平泉地区の世界遺産の所在地(googlemap 航空写真)



世界遺産の陸奥の国(岩手県)・平泉 .

当初、該当する地域と政府は、平泉町以外に奥州市や一関市の遺跡も含めて九資産で世界遺産委に推薦、認定依頼したが、「浄土思想との関連が十分に証明されていない」ことなどを理由に、国内で初めて「落選」した。
政府は更に、「浄土思想の表現」に強く関連する平泉町の6資産に構成し直して再推薦した。

登録の可否を審査するユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)は、2011年年5月、浄土思想との関連が薄いとして奥州藤原氏の住居だった「柳之御所遺跡」を外し、名称も「仏国土(浄土)を表す建築・庭園 及び考古学的遺跡群」から「考古学的遺跡群」を削る変更を求めた上で、5資産の登録を認定、勧告した。



東北地方のほぼ中央(岩手県南部)に位置する平泉の文化遺産は、平安時代末期約100年にわたり独自に発展させた仏教寺院や浄土庭園などの遺跡群である。

又、仏教施設や浄土庭園と称する構築物は、他の都市の建築や庭園に影響を与えたとされ、それらは浄土思想に基づく現世における浄土を表現したものとして評価された。

平泉は、12世紀に東北地方で栄えた奥州藤原氏ゆかりの歴史的土地である。
奥羽の変と言われる「前九年の役」、「後三年の役」の後、初代・藤原清衡が平泉を「仏の住む極楽浄土」にしようと考えて、先ず、中尊寺を建てた。 

更に、清衡は同寺に藤原4代の遺体が眠る「金色堂」も建立するる。
その後、三代に亘って、平泉を仏都の中心に置き、各地に浄土思想に元ずく仏塔伽藍群や浄土庭園を構築する。


現在は、それらの構築物は庭園遺跡が残るのみで、建築物は殆ど礎石のみを残すのみであるが、以前から当時の浄土思想に元ずく歴史的、文化的遺産として、国の文化遺産に指定されていた。

そして今回、世界遺産に登録されるのは、この中尊寺をはじめ、毛越寺(もうつうじ)、金鶏山、無量光院跡、観自在王院跡の計五資産である。




世界遺産の平泉構成資産

中尊寺】 (金色堂、金色堂覆堂、経蔵、白山神社能舞台、境内)
毛越寺】 (境内附鎮守社跡、庭園)
観自在王院跡】 (毛越寺境内附鎮守社跡、庭園)
無量光院跡】  (礎石跡、庭園
金鶏山】  (現存する人工の山)

登録周辺地域は構成資産187ヘクタール、それを保護する緩衝地帯(バッファーゾーン)として6000ヘクタールの地域である。


因みに、世界遺産登録の範囲として、「構成資産」と「緩衝地帯」がある。

構成資産
文化遺産として直接登録される地域をいい、文化財保護法などで厳格に保護されていることが必要。

緩衝地帯』(バッファゾーン)
文化遺産を取り巻く環境や景観を保護するために、構成資産の周囲に設けられる利用に一定の制限を有する区域をいい、世界遺産登録のためには、緩衝地帯を確保することが条件となる。 
世界遺産登録のための特別な規定があるわけではないが、具体的にはそれぞれの国における法律や条例を適用して確保することになる。


世界遺産の平泉の項:終  。
引続き「東北紀行」を記載いたします。


次回、中世、平泉文化の隆盛の一要因であった「東北で国内初の金産出・・!! 」 





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




2012年5月9日水曜日

世界遺産・平泉(24)  「平泉の懸念と課題」

,




世界遺産・平泉(24)  「平泉の懸念と課題」 . 



 

平泉にとって、世界遺産に登録されるということは、東北地域に何らかの関係を有する者にとって、大変嬉しいニュースである。


大震災(2011年3月11日)から1年過ぎた先般、平泉町の中尊寺は奥州藤原二代基衡の命日に合わせ、東日本大震災で犠牲になった人たちの追悼法要を行った。
初代清衡の非戦平和の精神を引き継ぐ梵鐘が10年ぶりに突かれ、本尊と奥州藤原四代に経を上げ、犠牲者の冥福と行方不明者の無事、早期の復興を祈念したという。
菅野執事長は「経験したことのない災害。不幸にして亡くなった人の冥福を心から祈る。復興へは時間がかかると思うが、支援したい」と述べた。



平泉町の懸念

平泉は、世界遺産に認定された現在でも、明らかに環境破壊や景観の喪失が無作為、無意思のまま進められているともいわれる。
芭蕉が「夏草や・・」、と詠んだ政庁・柳の御所近くには環状道路のバイパス工事の計画され、金鶏山に隣接して宅地造成工事が行われていて、所謂、柔和な自然や文化の痕跡が次第に削られ、それが20年も続いていて自然環境は最悪になってきているともいう。 

又、毎年美しく咲いていた樹齢100年以上の柳の御所の枝垂れ桜も枯れてしまい、このことは、かっての麗しき平泉も今はすっかり「潤い」というか適度な湿り気が無くなってしまい、生命を育むことができなくなったと言われる。
「潤い」とは、文化そのものだ・・!、とある地元の識者は嘆く。

更に、現在の平泉の環境と景観について、普通にに判断するならば、これは「乱開発による人類普遍の遺産を保護する」といった世界遺産条約の理念に反しているのではないかと、懸念の声もある。



平泉の課題

何処もそうであろうが、世界遺産に認められた平泉は、ただ観光や見物もさることながら特に、歴史的にも学ぶべき点が多い。 現在、中尊寺だけを訪れて、1時間前後で町を後にする人々や観光ツアーさえもあるという。
だが、往時の平泉を伝える史跡は勿論、町内のほか一関市や奥州市にも点在するし、藤原清衡の培った「平泉」を理解してもらうには、少しでも多くを見て、街を歩いてもらうのが望ましいのである。


世界遺産に認定された行政区域である平泉町は、県内で最も小さな自治体である。 
小さな町域のため大きなホテルなどの宿泊施設はなく、泊まれるのは一日せいぜい400~500人ともいわれ、観光客は数時間だけ滞在し、後は花巻や仙台に向かってしまう。 所謂、通過型観光地であるともされる。
しかし、新たに宿泊施設や観光施設を設立するためには、財政に大きな負担がかかってしまうことも予想され、近隣の市町村等との連携などの地域活性化していく必要がある。
無論、平泉自体が世界遺産に登録される以前から名の知れた観光地であり、世界遺産として登録されたとしても、観光客の増加の変化があまり見られないか、一過性のものになったりする可能性もあると関係者は思案している。

こうした発想を踏まえ、滞在型の施設や旅行会社への積極的企画などの推進も必要であろう。
それに、世界遺産となった平泉を理解してもらうための努力、藤原三代の思いを世界に伝えるために必要なことの模索、例えば、リピーターの確保や周遊ルートの確立などの思い切ったPRが必要であろう。


頑張れ・・!!、平泉
頑張れ・・!!、東北
頑張れ・・!!、日本
来てくんちぇ・・!!、世界の人々 
 .




追筆

大震災から1年経過した2012年(平成24年)のGW(ゴールデンウイーク)には、連休初日からJRや観光各社の大型観光企画などによって、中尊寺や毛越寺などの遺跡に人の波が耐えなかったという。
平泉や周辺観光地には、県の観光担当部によると震災前の同時期とに比べると2~5割増し。
又、平泉町の調べでは同町内地区の観光客は昨年同期の10倍にも達していると、嬉しい悲鳴で、町は、「この勢いが続けば、年間訪問者数は過去最高になるのでは」と驚きを隠さない様子だとか。


次回、「世界遺産・平泉




【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」








2012年5月8日火曜日

世界遺産・平泉(23)  「北上川の水運」

.






世界遺産・平泉(23)  「北上川の水運」 .



往時の流通路「北上川」 .

鎌倉時代から江戸時代までの約400年は、戦乱のために政治も不安定で、北上川は交易よりも軍事的な面での役割が大きかったとされる。

時代は下って江戸時代になると、北上川の水運によって岩手南部藩領から河口である石巻港へ米が下る。
河口にあたる石巻は河川交通と海運との結節点として、日本海側の酒田港と列んで奥羽二大貿易港として全国的に有名になった。

伊達政宗が舟運の便を開き、上流の南部藩米を積んだ平舟がこの川を下って石巻で千石船に積み換え、江戸へと向かったという。 これによって、ここ石巻は北上川舟運の終点として江戸回米の一大集積地となり、石巻発展の礎となった。


この頃、伊達政宗は北上川に「貞山運河」(ていざんうんが)を拓いている。
旧北上川河口から阿武隈川河口まで、仙台湾沿いに全長約46kmに及ぶ日本最長の運河が延びている。 
江戸慶長年間から明治期にかけて建設されたもので、因みに「貞山」とは伊達政宗の謚号(しごう、おくりなで生前の行いを尊び死後に贈られる称号)である。
仙台平野に流れ出た北上川は大きく蛇行を繰り返しながら、近年になって津山町付近で洪水防止のため新たに開削された新北上川(追波湾:おっぱわんに注ぐ)と旧北上川(石巻湾)とに分かれる。 


北上川は、それらの戦役を含めた社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていて、別称・北上川流域文化圏とも呼ばれる。
北上川周辺には国指定史跡、名勝、天然記念物などの多くが分布していて、それは苦難の歴史を秘めていることでもあった。


北上川は、宮沢賢治(花巻市)、石川啄木(盛岡市)など、流域出身者の作品にも取り上げられたように、流域住民にとってはまさに「母なる川」なのである。
北上川は今も只、悠然と、ゆったりと流れている。




北上夜曲」 作詞:菊地規、作曲:安藤睦夫

匂い優しい白百合の
濡れているよなあの瞳
想い出すのは 想い出すのは
北上河原の月の夜
.




次回、 「世界遺産・平泉の懸念と課題」 





【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」




.

2012年5月7日月曜日

世界遺産・平泉(22)  「平泉と北上川(2)」






世界遺産・平泉(22)  「平泉と北上川(2)」 .



高館(義経堂)から観る北上川と束稲山




平泉は北上川の流域に栄えた、藤原時代における東北の中心であった。
その、義経が最後に過ごしたとされる高館(義経堂)からは、今でも平泉の美しい景色と北上川のゆったりとした清流が望むことが出来る。


11 世紀末~12 世紀初頭に、清衡(奥州藤原氏初代)は江刺郡に存在した豊田館(奥州市江刺区にある平安時代末期の居城で藤原経清が築いたとされ、経清の子・清衡が生まれ育った所であると伝わる)を出て磐井郡平泉に館を移した。


当時の平泉は、奥六郡の南の境界線である衣川を超えて、さらに南の地点に位置していた。
束稲山をはじめ東方に展開する北上山地と、西方に展開する奥羽山脈との間に挟まれた狭隘な盆地に当たり、日本の北方領域における主要道が北上川と近接して南北に貫く交通の要衝を成していた。
東に北上川、北に衣川、南に太田川がそれぞれ流れ、三方を川に挟まれた地であり、随所に湧水が点在する独特の水辺の景観を形成していた。

衣川の豊田館から平泉に移った清衡は、先ず、衣川北岸の渡河点として要衝の地である関山に中尊寺一山を造営した。

その後も北上川と大田川を運河で結び、河畔に「御所※」という居城を設け、更に、北上川の沿岸部の平地に侍屋敷を始めとする一大都市を造り上げ、大型船による舟運を開いている。 
この時、侍屋敷周辺は、暴れ川といわれた北上川の洪水を守るべく堤防を築いている。


御所(※)とは、政庁「柳之御所」(平泉遺跡群の1つ)のことで、初代清衡、2代基衡の居館、あるいは源義経の居所との伝承がある。
御所は平泉館ともいい、当時は北上川の水辺の際にあったため、長年に渡り侵食され、一時、館跡は川によって流されたと思われていたが、近年の遺跡の調査で確認がなされているという。



次回、「北上川の水運





新・日本紀行    新・日本紀行


   
新・日本紀行


小さな旅

   
海道を行く

   
吉幾三:ふだん着の温泉

【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

東北紀行2010内陸部    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002


【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」









01. 15.

トラッキング