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新・日本紀行
東北紀行(34)岩手路 「南部氏と盛岡藩」 ,
本丸・二の丸間の空堀に架かる赤橋
二の丸に築かれた草生す高石垣
時は下って戦国期、陸奥国・北部の豪族であった三戸城を居城とする南部信直(三戸南部氏)が天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して秀吉の満悦を得、所領の安堵状と朱印状を賜り、10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立している。
更に、慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、大名として認知されるのである。
この頃から主藩は盛岡に置かれ「盛岡藩」となっている。
石高は表高10万石であるが、実石高は20万石といわれた。
戦国末期の豊臣政権の軍勢下、南部信直は浅野長吉から不来方 (こずかた・今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれる。
浅野長吉(ながよし:後の長政)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉と名乗り「長政」は晩年の改名である。
子に浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の長直の父)がいる。
JR盛岡駅は、珍しく北上川と西側山地より流れ来る雫石川の合流点に設えてある。
もし、ここにお城を築いておれば地勢的にの軍事上理想的のようにも思えるところである。
実際の盛岡城は、駅前正面の不来方橋を渡った先、凡そ1km足らずのところにあり、無論、今は城郭は無く周囲を石垣や石の柵で囲ってある城址のみで、城内は岩手公園、愛称「盛岡城跡公園」として整備されている。
「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代(初代盛岡藩主)南部信直は、盛岡城をはじめ、城を中心とした城下町の建設を始め、概ね、現在の盛岡の街並みが出来上がっている。
盛岡城は会津若松の鶴ヶ城、白河の小峰城と並び東北三名城と呼ばれていたようで、特に城壁周辺は土塁や高い石垣が多用され、其の美しさは東北の城の中では異例ともいえたらしく、城郭がなくなった今でも城垣などの威容を感じることができる。
現在の盛岡城は本丸、二の丸を中心に石垣や水堀の一部など保存状態も良く国指定史跡に指定されていて、又、日本100名城に選定されている。
当時は盛岡のことを不来方(こずかた)と言っていたらしく、お城の名前も不来方城と呼んでいたが、2代目・南部利直が名称を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込めて「不来方」から「盛岡」に改めたといわれる。 従って、正しい呼称は南部氏の領する南部藩の盛岡城ということになる。
江戸も末期の1817年には、従来の南部藩の名称を藩主の居住する土地の名を取って盛岡藩と改められ、この時期になって盛岡藩の盛岡城ということになる。
幕末から明治維新に到って藩籍奉還が許されると、南部家は南部利恭が跡目を相続し盛岡藩知事に任命されている。
鎌倉期、南部光行が甲斐の領国から陸奥国に到って、其の後、南部利恭を迎えるまで実に800年の歳月、南部家41代を数えることになる。
岩手・盛岡出身の作家・高橋 克彦氏は・・、
『 古代から近代までの東北は敗者の暮らす土地であった。 弥生文化に席巻された縄文文化;中央朝廷の蝦夷・エミシの統一化;源氏に滅ぼされた藤原平泉文化;豊臣秀吉の天下統一最後の合戦場(岩手県・九戸);官軍の東北侵攻など、ことごとく侵害を受け、敗北を喫している。 その度に築き上げた豊かな文化は白紙に戻され、勝者によって歴史が改竄(かいざん)されてきた。 こんな国が他にあるだろうか 』とも述べている。
彼の著書に『炎立つ』という作品がある。
平安時代前期の朝廷と東北地方の関わりから、物語は平安末期から鎌倉時代の初期の頃の奥州を舞台にした戦乱模様を描いている。 前九年の役、後三年の役の奥州藤原氏の開祖とも言える藤原経清の生涯から、初代・藤原清衡が奥州の覇者となり、更に第三代・藤原秀衡と第四代・藤原泰衡の時代における藤原氏の栄華の時代から源氏台頭による頼朝、義経ら奥州藤原氏滅亡へと到る過程を詳細に物語っている。
尚、この作品は1993年から1994年にかけて放送されたNHK大河ドラマにもなっている。
次回、 花巻 「宮沢賢治記念館」
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東北紀行(33)岩手 「南部氏と“戸“」 .
三戸城の大手門・「綱御門」(復元)
三戸城の実際の築城は戦国期の永禄年間とされるが、それ以前の800年前に南部光行が防衛上の拠点(城柵)としたとも云われている。
地図を見るまでも無く、八戸に代表される「戸」の字が付く地域が多いのに気が付く。
平安末期の12世紀、この奥州では栄華を誇った藤原家は源頼朝によって滅ぼされている。
頼朝は、この戦に功績のあった武将に恩賞を与えたが、この時、御家人であった甲斐の国(山梨県)出身の南部三郎光行に、糠部(ぬかのぶ)五郡を預けている。
糠部郡は、現在は存在しないが当時は日本最大の郡域で、現在の岩手県北部、十和田、野辺地から下北半島全域と太平洋岸を指してたという。
この地方は藤原時代から大いに馬を育成していたことは既に知られていた。
所謂「南部駒」(後から付けた名前)の特産地であった。頼朝はこれに目を付け、貢馬(くめ)といって年貢として納めるようになった。
当時、馬は軍用として極めて貴重であったのはいうまでもない。
南部光行は、甲斐駒でも知られる馬産地の甲斐(現在の山梨県)出身で、かって知ったる牧場経営には大いに手腕を発揮した。
この馬の管理,貢馬のために設けた行政組織が「戸」の起こりといわれる。
「戸」は広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。
だが、四戸がない。 このことは四戸氏の嫡流及び一族が、三戸の南部家よって滅亡せられたのではないかという説が有力だといわれる・・?。
甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとされている。
因みに、南部三郎光行公は、「石橋山の戦い」で源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(南部町)を与えられる。この時、その地名にならい、「南部姓」を称したといわれる。
これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。
序ながら、青森には南部地方と津軽地方とがある。
南部地方とは、青森県東南部を指す地域で、一般に、青森県東南部の八戸市を中心とした十和田市、三沢市、三戸郡、上北郡の市・郡を指す。
南部の由来は無論、中世から江戸時代末期までこの地の領主であった「南部氏」から来ている。 別名この地方を県南地方とも呼ばれるが、近年では南部は地域名として捉える節もあるようだ。
又、津軽は現在の弘前、青森を中心とした青森県西部を指して言う地域呼称である。
「津軽」の起りは戦国期の後半、津軽 為信(つがる ためのぶ)が大浦氏の嫡男(養子)となって津軽・弘前藩の初代藩主となったことから始まる。
大浦氏は南部一族の豪族であるという説が有力で、為信自身も南部氏の一族であった。
つまり、津軽為信が南部の地から独立して津軽藩を押し立てたのであった。
この津軽と南部は、16世紀に津軽藩が成立して以来今日まで、同県内においては確執が絶えないと言われる。
他の地方同士の「いがみ合い」は赤穂と三河、長州と会津などはよく知られ、それも遠隔地にあって、事件や戦の為の怨恨によるものだが。
こちらは隣藩同士で、しかも現在にまで引きずっていると言う。
それは16世紀に津軽藩が成立して以来、津軽と南部の「犬猿の仲」の歴史が幕を開けたといわれる。 南部衆に言わせつと「南部藩の家臣だった津軽為信が謀反を起こして西部(津軽)の土地を奪い取った」といい、一方、津軽衆は「否、もともとの津軽家の土地を取り返しただけだ」と。
江戸期の津軽藩の参勤交代では、決して南部領を通らなかったといい、南部藩でも津軽藩を通さなかったという。
幕末の戊辰戦争では、南部は幕府側、津軽は新政府軍に付いた。
廃藩置県で南部と津軽の北半分が「青森県」という名称を置くにあたって、県庁を八戸に置くか青森に置くかで大揉めにもめたという。
最近では新幹線を通すのに、弘前を通すのか八戸を通すのか、余りに対立が激しいのでなかなかルートが決まらなかったともいわれる。
その他にも、細かいことを言えば南部と津軽の諍(いさかい)いは枚挙にいとまがないと言われる。
現在、青森のイメージといえば「弘前城」をはじめ、津軽のリンゴ、津軽三味線、ねぶた祭りなど津軽的青森の印象がつよく、イメージ戦略では「津軽」が優勢のようだが、果たして・・??。
次回、南部氏と盛岡藩 、
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