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東北紀行(28)岩手 「大伴家持」 ,
涌谷町の黄金山神社境内に立つ大伴家持の「万葉歌碑」
『 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く 』
(東国の陸奥の山に黄金の花が咲いたおかげで、天皇の御代は益々栄えるだろう)
日本で始めて金を産出したのは宮城県涌谷町の黄金山神社境内には、金の産出を記念する仏堂が建てられた。
これが現在の国指定史跡の「黄金山神社」と「黄金山産金史跡」である。
現在も、神社の側(そば)を流れる小川からは砂金を採取できるという。
この時の延暦元年(782年)、越中国(富山県)に地方長官として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は、陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち)として陸奥国府多賀城へと赴任している。(当時の陸奥守:国司は百済王・敬福)
陸奥按察使は、日本の奈良時代から平安時代に日本の東北地方に置かれた官職で、陸奥国と出羽国を管轄し、東北地方の行政を統一的に監督した地方官のことである。
家持は延暦4年(785年)、陸奥按察使持節・征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没している。
黄金が産出した頃、八世紀の宮城県北地域、特に国府・多賀城より北の地域は、政府の北東辺域にあたり蝦夷(えみし)の地との境となっていた。
政府は国家の範囲を北へと広げる政策をすすめながら、関東地方などから多くの人々を移民させ、要所には官衙(かんが;役所)や守りの城柵などを置いて、地域の整備や「蝦夷(えみし)」と呼ばれた原地人の人々の教化(支配下政策)にあたっていた。
こうして、律令政府のすすめた北進政策と産金地の拡大が深く重なりあい、後に「黄金の国ジパング」としてしられる奥州平泉の黄金文化の誕生につながってゆくのであるが、この時、朝廷(中央政府)による北進同化政策を、押し止めようとしたのが蝦夷の一族であった。
蝦夷(えみし)というのは農耕が導入される以前の日本人という説もあり、先住民族であるアイヌであるともいわれる。
飛鳥時代(七世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。
元より、東北の地は豊穣な大地に恵まれた聖域で、日本で初めて金が産出された土地でもあり、自然への畏敬と人と人との絆を大切にした暮らしを送っていた。 その生活は、毛皮や馬・鉄・金などの特産物の交易によって営まれていたといえる。
大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又和人の築いた柵を越えて襲撃を行っている。
飛鳥期の658年には阿倍比羅夫が水軍を率いて蝦夷を討ったという記録もある。
780年頃、蝦夷の最大の戦いは胆沢とその周辺で行われ、陸奥国の国衙である多賀城を一時陥落させている。
この時の指導者がアテルイという名が伝わっている。
平安初期、桓武天皇が京都へ都を移してからは、朝廷側が大軍をしきいて遠征し、この時の征夷大将軍が「坂上田村麻呂」であった。
次回、征夷大将軍・「坂上田村麻呂」
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