google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 世界遺産・日光大紀行: 東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」

2012年5月15日火曜日

東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」

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 東北紀行(30)岩手 「坂上田村麻呂の墓地」  ,




手前の竹やぶが西野山古墓(×印)、上方の赤○印が清水寺(Asahi・comより)



【追記】  

平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から特定されたという。

京都・山科に「西野山古墓」といわれる古墓が、既に大正8(1919)年に偶然発見されていて、内部からは武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が埋葬時の状態でみつかり、これらの状況から被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏(藤原氏の本流)の根拠地である点から関連した高貴な一族の誰かと推定されていた。

清水寺縁起」には田村麻呂の墓地に関する記載があり、「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があったとされる。 
その後の研究によって西野山古墓は田村麻呂自身の墓であることが特定されたという。
尚、清水寺の創建は平安初期に「延鎮上人」(奈良から平安前期の法相宗の高僧)により開祖 坂上田村麻呂の堂宇建立により創建されている。 
清水寺のある音羽山は、元々は延鎮上人の観音修行の地であった。 そこへ田村麻呂が山荘を建造したが、田村麻呂の夫人の発願によって堂宇として寄進し、延鎮上人によって開山したものとされている。(北観音寺⇒清水寺


田村麻呂は平安初期の811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという。
平安初期の頃は、まだまだ東国、特に蝦夷の勢力が強かった事が伺えるのである。
同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ、と言ったことに類似しているのが面白い。

西野山古墓
は清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。 
又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。

この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺えるという。
遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されているという。


次回、岩手 「奥州の不穏





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