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小さな旅
東北紀行(74)新庄 「山形民謡の古里」 ,
そして、真室川の直ぐ南が新庄である。
先ずは、民謡をどうぞ・・!
「新庄節」 山形民謡
ハアー(ハッ キッタサ)
あの山高くて 新庄が見えぬ(ハッ キッタサ)
新庄恋しいや 山憎や(ハッ キッタサ)
※お囃子は以下同じ
ハアー
猿羽根山(さばねやま)越え 舟形越えて
逢いに来たぞや 万場町へ
ハアー
どうせ住むなら 最上の新庄
人に実もある 花もある
東雲の東雲の夜明けの頃に 雀がチュンチュン カラスがカアカア
お空に鳶(とんび)が ヒョウロヒョロ
して又お寺の 金木魚(かねもくぎょ) スコポーン スコポン コポンコと
鳴らぬうちゃ 帰さりょうか
いやー、実に愉快な民謡である。
「あの山高うて 新庄が見えぬ 新庄恋しや 山憎や」
これも酒席での騒ぎながら歌う唄で、甚句(七・七・七・五の4句から成る踊り)の一種、野暮で小粋で、そして哀切な味わいがいい。
新庄は歌のように、南に神室連峰の陣ヶ峰、大森山、杢蔵山、八森山の美しい山々が見渡せ、この他にも遠く鳥海山、月山、葉山を眺めることが出来る。
新庄は「戸沢氏」が江戸期より明治維新まで治めた城下町である。
角館の武家屋敷の項でも記したとおり、元より戸沢氏は戦国期まで角館の城主であったが、芦名家そして佐竹北家が入城する直前に新庄(一時、常陸国松岡;現在の茨城県高萩市へ移封されている)へ移ってきたのであった。
この時より、250余年に渡る戸沢氏の藩政が始まる。
江戸時代を通じて戸沢氏は領国経営に熱心であり、多くの飢饉を乗り越えて石高4万石を実石6万石にまで増やすことに成功する。
「新庄祭」で歌われる民謡・新庄囃子には「昔ゃ戸沢の8万石よ」の文句もあり、祭は「東北三大山車祭」の一つで毎年40万人を越える人出があることで有名だそうである。
江戸中期の大凶作に喘いだ新庄藩が領民に活気と希望を持たせると共に豊作祈願をするため氏神の天満宮で大祭典を行ったことに始まるという。
戸沢氏は桓武平氏の流れをくむ名家で、出羽国角館に移動して以来、一族が集結して新体制を敷き、戦国大名としてのスタートを切った。
江戸時代には新庄藩主として明治維新にまで到っている。
羽州街道の宿場町でもあり、磐根街道(現、国道47号)」が開削される明治時代初頭までは庄内町清川まで道路がなかったため、市西部の本合海集落は最上川水運の主要積出港であった。
この頃、最上川舟歌の元歌が唄われていたのかもしれない。
現在の舟歌は昭和期になってからのアレンジらしいが・・?。
現在の新庄市は、最上地方の一極集中型であるという。
位置的に南北の交通と東西の交通が交わる要衝で道路網では国道13号と国道47号が交差し、鉄道では奥羽本線が南北に縦断し陸羽西線と陸羽東線が東西に横断する。
また山形新幹線の終点でもある。
地理的な特性から最上郡全体からの交通路も新庄市内に集中する構造になっており、は新庄市は最上郡の消費活動全体を支えていると言える。
山形県には他にも良い民謡がたくさん有るが、たとえば、市内を流れる「最上川舟唄」、「庄内おばこ」、「酒田甚句」、そして「花笠音頭」である。
その花笠音頭の古里、尾花沢、そして銀山温泉へ向かう。
次回、「尾花沢」
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