東北紀行(60)角館 「青柳家」 ,
青柳家の立看板の屋敷図青柳家展示品(元武家の様子が判る)
次に、石黒家の隣家に佇む「青柳家」を訪ねた。
更に、重装は薬医門を潜ると、屋敷の案内図が立っていた。
屋敷内は一見するまでもなく、神社の境内のような鬱蒼とした大木が生い茂っている。
総敷地3000坪という巨大な御屋敷の中、母屋の他に武器蔵、青柳家ゆかりの古文書や絵画、
掛け軸などを展ずる「ミニ博物館」、郷士館、当時の武士の生活様式を伝える「道具蔵」、はては秋田の食文化を伝える食堂・「食彩館」やアンティーク逸品を展示する「ハイカラ館」といった建物が建つ。
しかも庭園の中には小川が流れ、大元に神明水という清水が尽きることなく湧き出している。
この小川は主家の裏山から数百年に亘って湧いているらしく、NHKのTV番組・「新日本紀行」でも放送されたという。
これらの建物群は、重要な古物である武具や古文書、史的遺品を収容するために後々に設えたものであるが、主家・母屋や医薬門は当時の姿をそのまま残されているもので、県の文化財にも指定されている。
特に医薬門は重厚なもので家の位や威信を表すものとされ、上級武士にしか許されない格調の高さは青柳家の誇りは勿論のこと、武家屋敷群の角館の象徴ともされているという。
これは藩への功績が認められた際、特別に作られたものであるとのこと。
又、主家は200年以上の歴史を保っているといわれ、寄棟萱葺き屋根は曲屋(かぎ形:直角に曲った平面をもつ民家)で、玄関、座敷の仕切り戸や欄間は武家の青柳家らしい独特の意匠を凝らしている。
母屋、座敷は現存する角館の武家屋敷のなかで最も豪華だといわれる。
当家は、広大な屋敷と数多くの遺品の展示などで「角館の歴史村」とも言われているようだ。
青柳家は、元より戦国期から当主・佐竹義重に仕えていた。
佐竹 義重は戦国時代の常陸国の戦国大名で、常陸守護職家である佐竹氏第十八代当主であり、関東一の鉄砲隊を備えた別称・鬼義重、坂東太郎の異名を誇った。
即ち、常陸・佐竹氏の全盛期を築き上げた人物で、経済力を築き、豊富な資金力を実現したという。
嫡男・義宣の時代、関ヶ原の戦いでは家臣の反対を押し切って西軍(三成方;中立という立場もある)寄りの立場を表明した。
しかし、戦中の曖昧な態度を咎める名目で、常陸水戸54万石から出羽秋田(久保田藩)20万石へ減転封されることになる。
その後、義宣の弟・盛重(芦名家の跡取で芦名義勝と名乗る)に佐竹北家として「角館」を与え、その時、青柳家も盛重に随行、御徒組頭として60石(芦名家平均石高)が与えられている。
青柳家は廃嫡で芦名家が滅んだ後も佐竹家に仕え、更に新田開発や殖産を起こし度々藩、主君に御用金を献上、江戸中期には足軽組頭に昇格している。
更に、幕末には150石を有して角館の資産家、名士となって歴史に名を残した。
1973年(昭和48年)県の史跡に指定され、平成元年、角館歴史資料館として公開されている。
次回、「岩崎家」
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