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東北紀行(42)花巻 「花巻の三偉人」 ,
花巻の三偉人(写真上から)
宮沢賢治:1896年生・37歳、新渡戸稲造:1862年生・71歳、高村光太郎:1896年生・72歳、
両記念館を見学するに及んで学問や思考、哲学が両人とも究めて深慮であったことは何人も認めるところであるが、その方向性が好対照的なのに興味を覚えた。
宮沢賢治が究極の内向的志向を昇華した人物に対して、新渡戸稲造は身を外へ外へと向かわせた外向的志向で国際的に活躍した人であり、その対極的なところが面白いのである。
また、花巻の同地域の出身で、しかも同時期に偉大なる足跡を残したことに対し、花巻ならずとも南部・岩手県民としての人間の質の高さが伺えるのである。
そういえば、宮沢賢治は自分の故郷・「いわて」を「イーハトーブ」称していた。
イーハトーブとは、「いわて」、「いはて」をもじってつくられた造語ともいわれ、賢治の心象の中にある理想郷を指す言葉であった。
尚、「イーハトーブ」の名称の謂れは後世の人たちによって色んな解釈があるようだ。
又、新渡戸稲造が生涯を71歳(昭和8年死去)という、当時としては日本人の平均寿命(昭和初期では男子で45歳前後)と比較するとかなりの長寿を全うしている。
それに対して宮沢賢治は37歳という悲運の短命で生涯をとじている。(昭和8年死去、奇しくも新渡戸氏とは同年)
僅か20年たらずでこれだけの偉業、大業を成し遂げているのであり、“れば”、”たら“になるが、もし、あと10年、20年存命していたら、遥かに稀有壮大な、計り知れないほどの功績を残す人物になっていたと想像してしまうのである。
それにしても、宮沢賢治に「天二物を与えず」という諺は相応しくないかもしれないが、才子多病、佳人薄命でありすぎた。
尚、高村光太郎については妻・智恵子のことで、二本松や安達太良の項で記載したが、ここ花巻市内に記念館(高村山荘 高村記念館)があった。
芸術家・高村光太郎が花巻にて過ごしたのは、戦争も終わりに近い昭和20年、以前から知己の間柄だった宮沢賢治を頼り、賢治の弟の家に疎開してきていたという。
滞在期間は7年間に及び、後に、太田村山口(花巻市山口)に庵を設け、農耕自炊の生活を始めた。
これが現在の「高村山荘」であり、この山荘から少し離れた木立のなかに高村記念館が建っているという。
館内には十和田湖の「裸婦像」の原型や妻・智恵子作の切りぬき絵などの作品のほか、智恵子とのスナップ写真や愛用品などの遺品など約130点余が展示されているという。
次回、花巻 「大沢温泉」
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