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東北紀行・昔の旅人:「吉田松陰」 .
吉田松蔭の「東北遊日記」
次に、「吉田松陰」のこと・・。
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して陸奥の国(東北)は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。
その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。
旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。
吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。
江戸に上るのに際し、畿内・山陽・西海・東海と旅してきたが、陸奥・東北は未知の地であり、直接見聞を広げたい思いが募っていた。
松陰は先ず越後を目指した。
会津を経て、会越国境の雪の「六十里越え」を果たし、越後路から荒れ狂う日本海を佐渡にわたり、再び新潟に戻り、舟で秋田に向かおうとしたが、折からの悪天候のため舟が出ず、海沿いの陸地を北上し、久保田城下(秋田市)に入ったのは閏2月24日であった。
さらに津軽街道を弘前城下、そして津軽半島まで足をのばし、青森、七戸、盛岡、一ノ関、石巻、仙台と南下し、七ヶ宿街道から二井宿峠を越えて米沢に入っている。
米沢から桧原峠を越えて会津若松へ、田島を経て江戸に戻ったのは、嘉永5年(1852年)4月5日であった。
23歳の松陰の140日間にわたる旅であった。
無論、安らぎの一時もあったようで特に、「東北・十三潟」(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった」たという下りもある。
松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。
尚、「吉田松陰」については、小生の周遊歴史紀行の山口・萩の項(下記URL)で詳しく記載してあります。
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-23.htm
次回は、 「旅人:正岡子規」
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