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世界遺産・平泉(8) 「秀衡と義経と頼朝」 ,
【更に、藤原秀衡】
秀衡肖像画(wiki 毛越寺所蔵)
藤原三代目を継いだ秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。
この時代、奥州藤原氏が館をおいた「平泉」は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す一大都市であった。
秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。
また陸奥守として下向してきた院の近臣と身内の婚姻を執り行い、中央政界とも繋がりを持つようになる。
東北の支配者として全盛期を築いた秀衡は、朝廷から陸奥守(むつのかみ)という地位を与えられてはいたものの、京都に都を置く朝廷とは一線を画した存在であった。
その豊富な産物での交易によって財力を高め、一説には奥州十七万騎と言われるほどの軍事力と、京の都を彷彿とさせる寺院建築によって文化の高さを披露しながら、いわゆる奥州独立王国としての姿勢を保っていた。
やがて源平争乱の時代が訪れても、秀衡はどちらに味方をするという姿勢を見せる事なく、静観を続けていた。
そんな最中、承安四年(1174年)、黄金によって財をなした商人=金売り吉次が連れてきたとされる若き日の「源義経」を迎え入れることになる。
世は、未だ平家全盛の時代、源氏の御曹司を保護するという事は、「その平家が牛耳る京の都を中心とする国の影響を、この奥州は受けていないのだ」という主張にも聞こえる。
こうして、義経は16歳から23歳までの多感な7年間を奥州で暮らす事になる。
そして、23歳になって義経は頼朝の元に旅立つなだが・・!。
数々の奇襲作戦で源氏に勝利をもたらした義経であったが、義経に言わせれば何故か何故か兄・頼朝と仲違いしてしまい、逆に、義経は追われる身になってしまう。
一連の彼の噂は、奥州にも届いていた筈で、秀衡は快く義経を引き受ける。
しかし、残念ながら秀衡は、その義経の逃げ込みから八ヶ月後に息を引取る。
その遺言は、
「判官殿(義経の事)を愚かなしに奉るべからず」
「義経公を大将軍にせよ」
だったと言う。
おそらくは、すでに後継者と決めていた実子=泰衡ら兄弟と、預かり者の義経との関係にも、様々な思いがあったのだろう。
この遺言を見る限りでは、奥州藤原氏の独立維持を、義経の戦闘能力に託したかもしれない。
結局は、頼朝が奥州を攻めに来る前に義経も泰衡の奇襲によって死ぬ事になるのだが・・!。
次回、【源義経】
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