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東北紀行(103)会津 「戊辰戦争(2)」
会津藩の戦い・・!! 、
1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を上げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。
慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。
しかし幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。
だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。
そして遂に「奥羽諸藩」による会津追討の命が下る。
しかし、奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。
遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。
戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。
近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非=えせ官軍と言う)に、母成峠、戸の口(猪苗代湖の北西部、飯盛山を掘りぬいて作られた会津盆地の灌漑用水路。戊辰戦争の時、白虎隊が追手から逃れる抜け穴としてこの水路を利用したといわれる)と攻められ城下まで戦火は及ぶ。
この時期に会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。
藩士家族は城内へ・・! 、
敗色濃厚、やがて鶴ヶ城は落城確実と見られた折、藩家族の一部は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。
藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。
藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する。 (実質的に会津藩の滅亡)
その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。
数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。
次回、北の果て;「斗南藩士」
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